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シリコンバレー物語(6)

■失敗がキャリアの汚点にならない理由

 ジェリー・カプランは、さしずめシリコンバレーに棲む亡霊の典型といえる。
 カプランが最初の会社、ゴー(GO)を立ち上げたのは1987年のこと。ペン入力コンピュータを開発するという同社のアイデアはベンチャーキャピタリストらの投資意欲をおおいに刺激し、合計3000万ドル以上もの資金がゴー社に投じられる。
 が、期待のペン入力コンピュータは技術的な問題から製品化に至らず、1994年、同社はAT&Tに吸収合併されることになる。カプランの目論見は失敗に終わった。シリコンバレーに新たな墓標が立った。3000万ドルを超える投資が水泡に帰した。
 ところが、他の起業家がそうであるように、カプランも1度や2度の失敗でへこたれたりはしなかった。ゴー社が吸収合併されて間もなく、カプランはネットオークションの先駆けとなるオンセール社を立ち上げる。
 オンセール社はごく短期間に急成長を遂げ、早くも97年には株式を公開するまでになる。その瞬間、カプランの個人資産は一気に1億ドル以上に膨れ上がり、シリコンバレーのニューヒーローになった。ゴー社の失敗からわずかに3年後のことである。
 ジェリー・カプランの例からも分かるように、シリコンバレーでは1度や2度事業に失敗したからといって、ただちに『社長失格』というような烙印を押され、再起の道が制限されたり、閉ざされるようなことはない。
 なぜ失敗がキャリア上の汚点、前科にならないのか? その理由を思いつくまま上げてみると・・・。
【失敗するのが当たり前と了解】
 ベンチャービジネスのベンチャー[venture]とは冒険とか投機という意味である。動詞では「危険を冒してやる」「一か八かやってみる」という意味になる。こうした言葉が使われることからも分かるように、アメリカでは、とりわけシリコンバレーでは独立起業は多くのリスクを伴うものであり、失敗するのが当たり前という社会的了解がある。だからこそ、わずかな成功の可能性を少しでも高めようということで、ベンチャーキャピタルをはじめとした各種の支援サービス=起業のためのインフラが整備されているのである。「成功と失敗は紙一重であり、紙一重の差を知るには2回失敗することが必要だ」という金言さえシリコンバレーにはある。
【失敗を「実績」としてプラス評価】
 ゴー社の失敗によって、ジェリー・カプランは3000万ドルもの投資を無駄にしてしまった。日本でならば“3000万ドルを紙くずにしてしまった男”というようなレッテルが貼れ、経営者としての再起の道は閉ざされてしまうところだ。
 しかし、シリコンバレーでは違う。3000万ドルもの資金を集めることができたという事実、それ自体がひとつの実績として高く評価されるのである。結果的にAT&Tに吸収合併されてしまったとはいえ、AT&Tやマイクロソフトなどと互角に渡り合った経営手腕も、やはり高い評価の対象になる。
【失敗を帳消しにする成功報酬の大きさ】
 カプランの例からも分かるように、2度、3度失敗を重ねても、1度成功すれば過去の失敗をすべて帳消しにして余りあるほどの成功報酬をごく短期間に手にすることができる。
 事業が成功し、株式公開を果たした途端に墓場から蘇った亡霊(起業家)は資産数百億円の金持ちになり、投資家は膨大なキャピタルゲインを手にし、従業員もまたストックオプションのおかげで億万長者(ストックオプション・ミリオネアと呼ぶ。さしずめ“自社株長者”といったところ)の仲間入りを果たす。
 どの会社にも、どの起業家にもその可能性すなわち失敗を帳消しにする大きな成功の可能性があるから、だから何度か失敗しても大目に見てもらうことができるわけである。
【誰も損をしない構造?】
 ベンチャー企業の運転資金はベンチャーキャピタルやエンジェル(個人投資家)、コーポレート・パートナーと呼ばれる企業の投資によって賄われる。
 あくまでも投資であるから、仮に会社が倒産するようなことがあったとしても、経営者は提供された資金を返済する必要はない。日本のように社長個人が多額の負債を抱え、そのために身ぐるみはがされたり、自己破産に追い込まれたりすることがない。
 失敗しても傷が浅い。被害が少ない。したがって立ち直りが早い。いくらでもやり直しがきく。
 ベンチャーキャピタルやエンジェル、コーポレート・カンパニーは多くのベンチャー企業に分散投資をしているため、投資先(ポートフォリオ・カンパニーという)のいくつかが事業に失敗し、仮に倒産したとしても、それによって大打撃を被ることはほとんどない。10社投資した中で1、2社が株式公開でもすれば十分すぎるキャピタルゲインを得ることができるのだから。
 会社が倒産してしまえば従業員は職を失うことになるが、路頭に迷うようなことはない。年に3000社ものベンチャー企業が誕生し、一方には人手が足りなくて困っている大企業や中堅企業もたくさんあるからだ。能力さえあれば職にあぶれるようなことはない。
 このように、失敗が失敗として表面化しにくい構造になっているわけである。

シリコンバレー物語(5)

■「失敗」もまたひとつの実績であり財産


 一説によれば、シリコンバレーでは1年間に3000社ほどのベンチャー企業が誕生し、そのうち2500社ほどが1年以内に潰れるか、休眠状態に陥ってしまうといわれる。3年後の生存率はせいぜい5%ほどだとか。
 シリコンバレーは毎年数多くのベンチャー企業が誕生する産院であり揺りかごであり、そして数多くのベンチャー企業が衰滅し、消滅していく墓場でもあるわけだ。屍累々、である。
「潰れていった会社の跡に墓標を立てていったら、シリコンバレーはそれこそ墓標で埋まってしまう。まさにシリコンバレーはベンチャー企業の墓場ですよ」
 DVD用オーサリング(編集ソフト)システムの開発を軸に事業を展開しているベンチャー企業、スプルース・テクノロジーズの曽我弘社長はそういって苦笑する。1935年生まれの65歳。新日鐵を定年退職したのちにシリコンバレーで起業した他にあまり例を見ない熟年起業家である。
「シリコンバレーで成功しているヤツは、みんな、その墓場から出てきた連中なわけですよ。亡霊なんです(笑)。1回失敗し、2回失敗し、3回失敗して、失敗するたびにだんだん賢くなって、あるときパッと大きな成功を納める。それがシリコンバレーでは普通なんです」(曽我社長)

シリコンバレー物語(4)

 ■ネットワークの中にはいることが成功への第1歩


地縁、血縁関係が濃くなればなるほど、そこにおける人間関係は濃密なものになる。人と人とのつながりが重要視され、その分だけ排他的になる傾向がある。シリコンバレーもまさにそうである。有力な人の紹介がなかったら何も進まない人的ネットワーク社会なのである。
 当然のことながら、ネットワークの中に入り込むことができなければ、シリコンバレーでいい職にありつくことはできない。自らの才覚で起業しても、成功はおぼつかない。

 現地で活躍する起業家の1人は次のように話してくれた。
「たとえば、レジュメの中にインテルで5年間勤務した経験があると書いてあったとします。シリコンバレーではこれほど分かりやすい記号はない。彼らはすぐにインテルの関係者に電話をしてその人物の評判を聞き、信頼に足る有能な人物だという返事が戻ってくれば、その人をネットワークの一員として認めるわけです。社員として雇ったり、経営陣として迎え入れたり、資金援助をしたり、ビジネスのパートナーとして手を組んだり・・。 シリコンバレーでの実務経験がない場合には、学歴が有力な記号になります。シリコンバレーはものすごい学歴社会ですから。MBAやエンジニアリングのマスターを持っていれば、ネットワークの一員として認められやすいということがいえます」

                            (たきた)

シリコンバレー物語(3)

■フェアチュルドレンが作り上げたハイテクの都


“フェアチュルドレン”--フェアチャイルドの子どもたちを意味するこの造語は、フェアチャイルド社からスピンアウトした研究者や技術者たち自身を、彼らが設立した会社を、その会社からスピンアウトした研究者や技術者、彼らが設立した会社等々を指す。
 60年代後半のシリコンバレーでは、ハイテク企業で働くエンジニアのほとんどがフェアチルドレンだといわれたほどだ。
 数あるフェアチルドレンの中には、親をもしのぐ成功を納めた会社もある。ナショナルセミコンダクタしかり、インテルしかり。
 そしてまた歴史は繰り返す。
 ナショナル・セミコンダクタやインテルが大きくなる過程で、多くの研究者や技術者がスピンアウトし、多くのベンチャー企業がスタートアップした。
 このように、スピンアウトとスタートアップ繰り返しながら、同じようなルーツを持つ同族的会社が次々と誕生し、ハイテク産業の都=シリコンバレーが形成されていくわけである。
 シリコンバレーがあたかも1つの株式会社のように感じられるのは、地縁、血縁関係の濃い会社が数多く集積しているからである。(たきた)

シリコンバレー物語(2)

■シリコンバレー株式会社の系譜■

 

シリコンバレーの成り立ちを遡ると、“シリコンバレー株式会社”と呼ぶに相応しい系譜をそこに見出すことができる。
 シリコンバレーの系譜を遡っていくと1925年にスタンフォード大学の教授になったフレデリック・ターマン(1982年没・享年82歳)に行き着く。ターマン教授は学生に対し、東部の大手企業に就職する代わりに、大学で学んだ知識を活かして独立起業することを奨励した。
 彼の忠告に従った最初の学生、それがウィリアム・R・ヒューレットとデーヴィッド・パッカードである。1938年、大学に近い住宅街の一角にある小さなガレージで、2人はオーディオ発振器の製造メーカーとしてヒューレット・パッカード社を立ち上げる。当時のまま今も残るガレージの前には、『BIRTH OF SILICONVALLEY』(シリコンバレー誕生の地)と刻まれた碑が立っている。
 スタンフォード大学が所有する広大な土地を工業団地(スタンフォード・インダストリアル・パーク)として開発、整備し、ハイテク企業にリースすることを思いついたのもターマン教授であり、彼はまた自ら率先して企業や研究所の誘致も行った。その1つに、ショックレー半導体研究所がある。
 トランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞したウィリアム・ショックレーが、長年研究してきた半導体技術を産業分野に応用する目的で1956年に設立したのがショックレー半導体研究所である。設立当初の研究員は20人ほどで、のちにインテルを創業することになるロバート・ノイスやゴードン・ムーアもその中にいた。
 ショックレーは科学者としては優秀だったが、異常ともいえる偏屈な面を持ち合わせており、研究所設立のわずか1年後、57年夏、彼の下で働くことに耐えられなくなったノイスやムーアら研究所の主要メンバー八人が研究所を去っていく。
 この8人が中心になり、IBMの個人筆頭株主だったシャーマン・M・フェアチャイルドが150万ドルを出資し、57年暮れにフェアチャイルド・セミコンダクターが設立される。社長にはロバート・ノイスが就任した。
 フェアチャイルド・セミコンダクターは大成功を納め、60年代後半には3万人以上もの社員を抱える大会社へと成長を遂げる。 その過程で、シリコンバレーのあちこちで多くの“フェアチュルドレン”が誕生する。

(文・滝田誠一郎)

シリコンバレー物語(1)

■人的つながりを重視する“シリコンバレー株式会社”■


「シリコンバレーは巨大な1つの共同体というか、シリコンバレー自体が巨大な株式会社であるかのような一面を持っている」
 スタンフォード大学でMBAを取得し、その3年後、日本興業銀行を退職してシリコンバレーの新興ベンチャー企業のバイス・プレジデントに転身したN氏は、シリコンバレーをひとつの共同体、まるで株式会社のようだと表現する。
 株式会社にも例えることのできる地域全体としての組織力、総合力がシリコンバレーの特性であり、それこそが数多くの成功物語を生み出し続けているシリコンバレー特有のインフラそのものなのだ、ともN氏はいう。
 シリコンバレーを株式会社にたとえるならば、シリコンバレーで生まれ育ったインテルやオラクル、シスコ・システムズ、ヤフー等は、その屋台骨を支える事業部になぞらえることができる。いずれも世界に冠たる優良事業部であり、成長著しい花形事業部である。「事業部は事業部として大きく成長し、その一方でどんどん新しい事業(=ベンチャー企業)が生み出され、同じ社内にあるベンチャーキャピタルや法律事務所、会計事務所などの各部隊がすべて融合し、ものすごい速さで意思決定を行い、必要に応じて強力なサポートを行い、シリコンバレー株式会社全体としてぐんぐん成長している。そんなイメージですね」(N氏)

(文・ 滝田誠一郎)

(株)マインドシェア 今井祥雅社長

今井祥雅社長
【訪問企業】 株式会社マインドシェア
       所在地  〒108-0073 東京都港区三田3-2-8 
       設立   平成元年12月22日
       http://www.mindshare.co.jp/   
       事業内容
       ・コミュニケーションマーケティングのサポート事業
       ・コンサルティング
       ・リサーチ&ディベロップメント
       ・アドバタイジング&プロモーション
       ・クリエイティブ
       ・ウェブソリューション
【取材相手】 今井祥雅社長
       

◆今井社長の学生時代について教えてください
今井:中学の時から不良だったんだけど、中途半端な不良っていう感じで

した。高校1年になって3度目の停学が無期停学で、父親が学校に休学

届けを出して僕をアメリカに放り投げたんです。ミシガン州にホームスティ

したんですけど、初めは自分がどこにいるのかもわからない状態でした。
 でも、アメリカは自分から行動しなければ何もできない国だから、僕なり

に頑張って、日本への帰国が近づく頃にはバスの運転手を口説いてバス

を貸し切って留学生の仲間達とアメリカ縦断したりするようにまでなってい

ました。
 帰国して、親に浪人を許してもらって青山学院国際政経に入学しました。

1期生です。でも、厚木キャンパスに行ってみたら先輩もいないし、高校

4年生みたいな感じだった。
 当時厚木は、青山のネクストバッターボックスみたいな位置づけで、つま

んなかったんですよね。何かしなきゃいけないなぁっていつも考えていて『

奥さん米屋です同盟』というのを作ったんです。月に1回お米を運んでくる

お米屋さんになぞらえて、どこのサークルに入っていてもいいから月に1

回僕が主催するイベントに参加してくださいねっていう、いわゆるセカンド

サークルです。これが厚木にすごくフィットした。それでテレビに出たりだ

とか。第1回厚木祭も企画しました。厚木祭名物イベントのナイトハイクも

僕が企画したんですよ。


◆起業することはいつから考えていたのですか?
今井:何かを企ててやるということに興味があったので、会社を興すという

よりも、まず事業の中身の方に興味を持っていたのかもしれません。学生

企業もはじめて、代理店から仕事をもらったり、先輩から取材を頼まれた

り、さまざまな仕事をしました。すぐにではなくても、いつかは独立して、僕

の先輩たちのように社長やってみたいなと思い始めたのが大学3年生の

終わりくらいです。


◆起業するきっかけを教えてください
今井:卒業してすぐに独立したいと思ったんですけど、僕の恩師に「使われ

た経験もないのに人を使うなんて全然だめだよ。まず、石の上にも3年、こ

んな会社作りたいって思う会社に入ってみろ」って言われて、興味のあった

リクルートに入社しました。
 でも、学生企業をやっていた時、年収900万だったのが、リクルートに入

ったら自由に使えるお金が月16万強。なんとかしないといけないと思ってマ

ンションを田町に借りて、「三田クラブ」と名付けてルームメートを募集した

んです。結構いろんな人間が集まってきて、そこでできた仲間は今でも本

当にかけがえのない存在です。会社で名刺交換してから始まる仲間と、

友達から始まる仲間って全然違うんだよね。
 そして3年後、三田クラブの仲間とみんなで辞表書いて、それぞれの会

社に出してそれぞれに独立しました。みんな何か大きいことがやりたいって

いう奴らばっかりだったし、実際企業から三田クラブに何かアイデアを出し

てくれっていう仕事もきてたし、もう待てなかったです。僕は平成元年にマ

インドシェアを立ち上げました。


◆マーケティングという分野で仕事をしようと決めたのはいつですか
今井:僕自身マーケティングというものを知ったのはリクルートに入ってか

らです。初めは調査の集計を勉強し、設問と設問の間の相関関係を見つ

けていくというような分析を学んだりしました。ここで得た経験がすごくおも

しろくて、調査というものからこんなものまでわかっちゃうんだ、と。目から

鱗状態でした。
 それと、生活者側の視点にたって生活者が本当に欲しているものを調

査して、こういう商品が欲しいので作ってくださいっていうアイデア提供み

たいなことがしたくなったんです。
 というのも、バブルの頃って企業側はどんどん商品を作っていたから、

モノがいっぱいあったんです。生活者側も消費欲があるから新しい商品

にどんどん飛びついていた。
 でも、僕の感覚では欲しいものは逆にだんだんなくなってきたなってい

う感じがしました。ヒット商品がでても、それを越える商品がでてないなっ

て思ってたから、自分でアイデアを提供してみたいと。実際、企業側から

も「若い人に受ける商品ってどんなのかな」とかいう質問もけっこう来てた

しね。企業側と生活者の間のズレを見つけて、企業にフィードバックする

ような仕事ができないかと考えて仕事を始めていったら、それがマーケテ

ィングでした。
 心の中の“気になり度数”を調べるマインドシェア方程式というものがあ

るんですけど、マインドシェアという社名はそこからとりました。ロゴマー

クも、二つの相対するものの交わりをつくっていきたいというところから考

えつきました。


◆学生へのメッセージをお願いします
今井:手足で稼ぐ20代、頭を使って稼ぐ30代、人を使って稼ぐ40代、お金

を使って稼ぐ50代っていう考え方が昔からあります。やっぱり自分の能

力を身につけて、発揮しなきゃいけない。
 君たちには潜在能力はあっても、まだ経験が少ないので発揮能力はあ

りません。発揮能力を過信して独立しちゃだめだよということを僕はよく言

います。潜在能力を発揮能力に変えられて始めて仕事なんです。仕事も

お金が入金されて始めて成果なんです。
 10年後、20年後に本当に世の中の中心に入っていった時に、いろんな

ベンチャーに一緒に頑張れる仲間がたくさんいたらいいよね。僕がずっと

言い続けて来たことは、日本を元気にしようよってことです。どこにいて何

をしててもいいけど、みんなの時代観というか、みんなで一体となってこ

の日本を元気にしていこうっていう握手は今のうちにしておこうよっていう

ことなんです。
 新しい時代に新しい価値観をもてる仲間達を僕は学生の時から探して

は飲んで、夢を語って、ネットワークを広げていました。ただ「知ってる」

だけではネットワークにならないんです。共通の価値観を、大学という枠

を越えて何人の人と共有できるか。学生の頃は、本当にネットワーク作り

ばかりしていました。大学を卒業するときには、5000枚の名刺がありまし

た。(取材・文 塚越安季)

㈱gusiness(ギジネス) 園田雅江社長

【訪問企業】 ㈱gusiness(ギジネス)
   ・所在地  東京都港区虎ノ門1-2-3
   ・http://www.gusiness.com/index.html
【取材相手】 代表取締役  園田雅江氏  


園田雅江社長


--今回は初めて女性社長の園田さんにお話をお伺いするということで、「仕事における女性の可能性」というものを軸にお話いただければと思います。まず園田さんの学生時代を教えてください。
園田:今では想像つかないと思いますが、大学時代は気に入った作家の作品は著書全てを読破するような文学少女でした。当時の私の友達や恩師は今の私を知るとひっくり返るくらい驚きます。


--学生時代はバブルでしたよね?
園田:そうですね。まさに、田中康夫の「なんとなくクリスタル」の時代でした。毛皮のコートを学校に着て来たり、クルーザーで花火を見に行ったり、親がマンションを買ってくれたりという話はよく聞きました。

 私自身はそういうふうに遊んだりしていませんでしたが、社会全体がこのままどんどん豊かになると根拠なく思わせるような雰囲気がありましたね。


--アルバイトをされたことがないとか?
園田:そうなんです。親の方針で(笑)。実家は松山ですが、東京の大学に行くということで4年間の東京行きが許されました。母親が専業主婦だったということもあったと思いますが、働くということについての自分の意思や意見はまったくありませんでした。
 でもまだ東京に居たかったという本音と、社会勉強という建前で、2年間の就職を決めました。そんな動機なので行きたい会社もなく、やりたい業種もない。幸いなことに成績だけはよかったので、就職課の人が一生懸命探してくれて業者間の債券取引を扱う証券会社に就職しました。


--どんな仕事をされたんですか?
園田:今でいう一般職ですね。当時は男女雇用均等法などもなくて、女性社員は入社10年目と入社1~2年目の仕事に大差ありませんでした。お茶酌みですね。そんな感じだったので最初の予定通りきっちり2年で辞めて実家に帰り1年間花嫁修業しました。華道、茶道、料理教室などで結構忙しく過ごしました。今考えるとよくやったな、と(笑)。
 帰省して1年後に結婚したのですが、「個」が埋没していくのが嫌で、仕事を探しました。でも当時の社会で特別なキャリアもない既婚女性を雇ってくれるところはなかなかありませんでした。
 でも外資系企業は違いました。私が結婚しているかどうかは聞かず、あなたは会社に何ができます?という視点の質問ばかりでした。何のキャリアも能力もない自分に悔しい思いもしましたが、そこで働いている女性の姿が輝いて見えたのです。その会社で秘書として働くことになり、最初は自分の上司が良いパフォーンスを残すこと、上司に褒められることが単純に嬉しくて、それをモチベーションに頑張りました。かわいい秘書ですね(笑)
 でも、仕事が面白くなってくると、秘書という仕事には業務の限界がありますので、管理部門に一般スタッフとして入りなおし、そこで人事専門のコンサルティングや社労士のことをはじめて知りました。私にとって外資系企業の人事制度は、とても働きやすく従業員として幸せだった、そこで、このような制度をもっと広めるべきだと思ったんです。
 最初は独立というよりも、自宅兼事務所といった感じの開業目的で社労士資格を取りました。しかし、私は「人」に関わる仕事をしたかったので人事コンサルティングを業としていこうと、経営コンサルティング会社の経営に参加しました。その後、人材育成を業とする㈱gusiness【ギジネス】を昨年12月に立ち上げました。


--男女雇用均等法などの違いは体感されてきたと思いますが、社長という職業について男女差などはありますか?
園田:まったくと言ってもいいくらいないと思います。会社経営に携わる人はリスクは避けて通れないとおもいますが、それは男女いかんを問いません。女性だからといってリスクが高いとか困難だということはありませんね。むしろ女性起業家の支援制度があったりで、メリットはあるかもしれません。私は元来個人差
であるものを男女差として論じるのが好きではありません。ほとんどの問題は個人差だと思っています。


--今の学生についてどう思いますか?
園田:今の学生は保守的なんじゃないでしょうか? 保守的っていっても私たちが学生のときとあまり変りはありません。でも社会や環境が大きく変っているのに学生は変っていないということは保守的なのかな、と。
 就職活動をする時にとりあえず大企業、みたいなブランドで選ぶ人がいぜん多いのではないでしょうか?
 起業するにしても、一度組織に属してスケーラビリティを身につけて欲しいというのが私の持論なのですが、自分の目標を立て、それに向かってマイルストーンを決めながら進んでいく。その延長線上に会社があるといった感じでしょうか。ゴールイメージはいくらでも修正してもいいと思います。 イメージすることが重要だと思いますので、自分のキャリアプランをしっかりと見据えて、皆さんには頑張って欲しいと思います。 


--最後に今後の㈱ギジネスを教えて下さい。
園田:設立から一貫して理念は変っていません。「考える時間」と「体験する時間」の提供です。企業としては、誰が操っても前に進める理論のきっちりしたパブリックな組織にすることを目標にしています。 また、起業家教育という分野では、高校生に対してのコンテンツの提供などの展開を予定しています。
--ありがとうございました。(取材・文 遠山寛志)